2005. 11. 6 .の説教より
「 道であり、真理である 」
ヨハネによる福音書 14章4−6節
今日の6節の「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」との言葉は、イエス様のことを信じるとは、どういうことなのか、ということを私たちに良く伝えてくれるのではないかと思われるわけです。つまり、イエス様を信じてこそ、私たちは神様の御許に行くことができるということです。マタイによる福音書の7章13節・14節に、「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」との言葉がありますが、私たちにとってイエス様は、「狭い門」なのかもしれません。「狭い門」と言いましても、その「門」を見いだす者が少ないという意味での「狭い門」なのかもしれません。しかし、その「門」を見いだすことができた者にとっては「狭い門」ではなく、「広い門」となるのではないでしょうか。イエス様を求め、イエス様を信じるかぎり、間違いなくその「門」を通って、神様の御許に、命に至ることができるからです。
しかし、それらの言葉は、多くの人たちにとりましては、受け入れ難いものとなるのではないでしょうか。なんと言いましても、そこでは、イエス様を信じることだけが、神様の御許に、命に至る「門」、「道」となっているからです。そういう言葉というのは、考え方が狭い、排他的だと言われかねないものとなるのではないでしょうか。やはり、多くの方々にとりましては、山に登るための道がたくさんあるように、どの道を通って登って行こうと、辿り着くところは一つ、同じというほうが受け入れやすいのではないと思われるのです。つまり、キリスト教でも、ほかの宗教でも何でも、それこそ、「八百万の神様」でも良いというほうが、受け入れやすいのではないかということです。私たち日本人の神観と言いますか、神観念・神理解と言いますのは、神様と自然とが一つであるかのように結びついているものとして考えるものだと言われています。難しい言葉で言うところの汎神論、万有神論ということになりますが、自然の中には神様が宿る、神々が宿るというものの考え方となるわけです。そうしたものの考え方とは相反するキリスト教的な考え方、あくまでも、イエス様を信じることなくしては、神様の御許に、命に至ることもできないとする考え方というのは、多くの人たちにとりましては、受け入れがたいことと、あまりにも狭い考え方となるのではないかと思われるわけです。
しかし、私たちの信仰、キリスト教の信仰と言いますは、狭いものの考え方との批判を受けることになるかもしれませんが、あくまでも、神様と私たち、私という関係、人格的な関係と言っても良いかもしれませんが、そうした神様と私たち、私という人格的な関係の上にこそ成り立つ信仰でありますので、「八百万の神様」でも、ほかのどのような宗教でも構わないというふうには、どうしても言えないところがあるわけです。また、そうした神様と私たち、私という人格的な関係の上にこそ成り立つ信仰であるからこそ、神様と私たち、私との「契約」も成り立つことになるわけです。逆に言えば、困ったときだけ、また、何か願い事があるときだけ、向かい合うようなところに、それも、お賽銭を投げて一瞬だけ向かい合うようなところに、願い事をするようなところに、はたして、人格的な関係が成り立つのだろうかと言えば、そのような関係など成り立たないのではないだろうかと思われるのです。また、神様と私たち、私という人格的な関係が成り立つためには、私たちの側のあり方としての道徳的なこと、倫理的なことというのも出てこなければならないのではないでしょうか。たとえ、不十分なかたちでしか道徳的なこと、倫理的なことができないとしてもです。道徳的に、倫理的に、きちんとはできないとしてもです。できるかできないかではなく、できないとしても、神様の御前に、少しでも相応しくあろうと努めることが、人格的な関係というものを考えるときに大切なのではないでしょうか。不十分なかたちでしかできないことは、誰よりも神様がご存じだからです。それに対して、自然の宗教というのは、基本的には祭りの宗教であり、倫理・道徳を超えた感情の宗教だということです。
それはともかく、イエス様は、「わたしは道である」と言われ、それに続けて、「わたしは真理であり、命である。」と言われているわけです。しかも、父の御許に至る道であると言われているのです。「わたしは〜である」とのイエス様の言い方ですが、原文では「エゴー・エイミー」ということになりますが、「わたしはである」としか訳すことができない、きっぱりと言い切っている、曖昧さのない言葉であるとされています。つまり、イエス様は、「私以外には、真理はない、命はない、父の御許に至る道もない。」と言われいるわけです。そのようように、イエス様がきっぱりと「わたしは真理であり、命である。わたしが父の御許に至る道である。」と言っておられる言葉を聞きますとき、私たちはどういうことを考えるでしょうか。また、思い起こすでしょうか。このヨハネによる福音書の8章31節・32節に、このように語られたイエス様の言葉が出てきます。「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』」とです。つまり、イエス様の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当の意味で、イエス様の弟子となるというだけでなく、真理を知るものとなり、真理によって自由なものとされるというわけです。では、私たちが本当の意味で、イエス様の弟子とされ、真理を知るものとされ、真理によって自由なものとされるために、イエス様の言葉にとどまるとは、どういうことなのでしょうか。イエス様が語られた言葉を心にとめて生きようとすることがまず考えられるかもしれまんが、それ以上に、この世界にお生まれになられ、この地上を歩まれた神様であるイエス様がなされたことに、私たちの目を向け続けることこそではないかと思われるのです。また、私たちにとっての信仰というのは、私たちが熱心な信仰をもって信ずるとか、信じないとかいうことではなくて、そうしたこの地上を歩まれた神様であるイエス様がなされたことに、私たちの目を向け続け、神様の御前に少しでも相応しくあることを願いながら、私たちとしての歩みを続けて行くことこそではないかと思われるのです。そうした信仰であってこそ、神様と私たち、私という関係、人格的な関係が成り立つ信仰と言えるのではないでしょうか。それでも、まだまだ、熱心な信仰とか、確固たる信仰こそが、なにかすばらしい信仰であるかのように考えられることがあるように思われますが、はたして、熱心な信仰とか、確固たる信仰に、どれだけの価値があるのだろうかと、私などは思っているわけです。なぜなら、私たちにとって、イエス様のことにしましても、神様のことにしましても、すべて分かったと言えるような時などないからです。私たちとしてできることはと言えば、もっとイエス様のことを、神様のことを知りたいとの願いをもって、祈り、聖書を読み、礼拝に出席し、神様の御前に少しでも相応しくあろうと努めて行くものでなかったとしたら、生きた神様との関わりの中にある信仰とはならないように思われるからです。神様とは、こういうお方だと簡単に固定して考えることなどできることではないのではないでしょうか。また、信仰というのは、そのようにして求めて行く中で与えられるものではないかと思われるわけです。そうした意味では、私たちにとっての信仰と言いますのは、「狭い道」なのかもしれません。しかし、どれだけのことができたとか、熱心な信仰であったとか、確固たる信仰であったとか、ということに関わりなく、もっとイエス様のことを、神様のことを知りたいとの願いをもって、祈り、聖書を読み、礼拝に出席し、神様の御前に少しでも相応しくあろうとしているならば、イエス様にとどまっている者となるわけですから、そういう意味では、私たちの信仰は、「広い道」だということも言えるのかもしれません。
ところで、今朝は、この礼拝を「聖徒の日」礼拝として守っておりますが、「聖徒」という言葉から、私たちは、どういうことを連想するでしょうか。やはり、「聖徒」の「聖」ということから、「清い」と言いますか、「立派な信仰者、信仰深い信仰者」を連想するのではないでしょうか。しかし、私たちの場合、そういう意味で「聖徒」という言葉を使ってはいないわけです。もし、そうだとするならば、どのような人でも、信仰者であっても、どこから見ても立派なところばかりということはいかないのではないかと考えられますので、立派なところではないところを知っている方からすれば、あういう一面もあったのではということが出てきたとしても、少しも不思議ではないわけです。どのような人であっても、信仰者であっても、さまざまな破れがあるからです。ボロがあるからです。そうした破れをもっている私たちが、もし、「清い」ものとされるなら、「聖徒」と呼ばれるに相応しいものとされるなら、それは、まさに、その人が、イエス様にとどまっていることによって、神様から「清い」ものとされることがあってこそと言えるわけです。まさに、そのようにして、イエス様にとどまっていることを通して「清い」ものとされ、その歩みを全うされて神様の御許に召された方々として、信仰の諸先輩の方々のことを覚え、私たちも、そうした信仰の諸先輩方にならって、その歩みをするものとなることを、この時、思いも新たにするものでありたいと思うものです。